『雪国』川端康成の書評です
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『雪国』川端康成

電子書籍はこちら → 雪国 (角川文庫・kindle版)

 ふとノーベル賞作家の作品を読みたくなった。海外の受賞作家のもので知らずに読んだ作品はいくつかあるかもしれないが(正直言って今までノーベル文学賞受賞作家ということを意識して本を選んだことがなかった)、日本人作家でノーベル文学賞を受賞している川端康成と大江健三郎の作品に関しては、まだ読んでいないことは確かである。そこでまず、日本人初の受賞者である川端康成の『雪国』を手にしてみた。

あまりにも有名な書き出しについて

 言うまでもないが『雪国』は、

 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」

というあまりにも有名な書き出しではじまる。
  この冒頭部分、発表当初は異なる書き出しだったらしい。Wikipediaによると『雪国』は、さまざまな雑誌に発表した断章をのちにまとめるという形で創作されている。書き出しは、その断章を1冊の単行本にまとめる際に現在のものとなったという。この日本文学史上燦然(さんぜん)と輝く見事な書き出しが、作者の試行錯誤の末に生み出されたことが偲(しの)ばれるエピソードである。参考までに変更前の書き出し部分がどういうものだったかというと、

以下Wikipediaより引用——
「国境のトンネルを抜けると、窓の外の夜の底が白くなった」となっていて、その前段にも文章があったが単行本刊行時に削除改稿された。
——引用ここまで

ということである。やはり変更後のほうが圧倒的に素晴らしい。

 もうひとつだけ書き出しについて。国境を「こっきょう」と読むか「くにざかい」と読むかの議論があるらしい。私は何も考えず「こっきょう」と読んだが、「くにざかい」と読むべきと主張する人々もいるようだ。詳しくはこちらを(Wikipediaの該当ページが別ウインドウで開きます)
 自分はどっちがしっくりくるか考えてみるのも一興かもしれない。

美しい文章、登場人物、ストーリーについて

 川端康成は、この作品の完成に足掛け14年の月日をかけ、何度か加筆訂正を行っている。その執筆過程を知ると、川端康成のこの作品に対する愛着と、優れた芸術家特有の創作に対する粘り強さが感じられる。多くの人が指摘するように、雪国の自然や人びとの暮しなどの描写には、川端康成ならではの美しさが溢れている。なかでも、クライマックス部分の情景描写は読む者を圧倒する見事さである。

 が、残念なことに私にとって『雪国』は、そこまでの作品に過ぎない。

 見事な情景描写に引き比べ登場人物の会話部分は、時代の違い(執筆された昭和初期と2014年)のせいがあるにしても、不自然さを感じる部分がかなり多い(言葉使いということではなく、意味合い的に)。この落差は非常に残念である。

 ストーリー的にも、特に際立った点は見られない。そこに不自然な会話表現が重なり、私は登場人物に感情移入することもストーリーに入り込むこともできなかった。
  想像に過ぎないが、島村は川端康成が「こんな人になってみたいなぁ」という願望の現れ(いくつかある内のひとつ)だろうと思う。そして大きく異なる性格に書き分けられている駒子と葉子、その二人ともが作者の好みの女性なのだろう。前述したように私の場合は、主要な登場人物の誰にも感情移入することができなかったが、川端康成と共通する好みを持つ読者にとっては、この『雪国』は魅力的なのかもしれない。

 現代文学の多くがそうであるように、本書でも曖昧(あいまい)な表現が多用されている。読者に考えさせ、想像を逞(たくま)しくさせるように導くという点では、非常に優れた作品であることは確かだ。われわれ読者は、川端康成の仕掛けに導かれて、さまざまな方向に想像を膨らませることができる。そのようなテクニックを重視すれなら本書は名作だろう。

 非常に有名な作品だけに、いろいろな人が本書を評価しているが、まだ未読の方は、既存の評価や作者の意図に必要以上にとらわれることなく、自由に想像力を働かせながら読むことをお勧めしたい。

ノーベル文学賞の受賞について

 ひと通り丁寧に読んでみたが、私には本書がノーベル文学賞受賞に大きく貢献した作品であるとは、正直言って思えなかった(本来ノーベル文学賞は作家活動全体に対して与えられるものである。川端康成のノーベル文学賞受賞理由も「日本人の心情の本質を描いた、非常に繊細な表現による、彼の叙述の卓越さに対して」というものだが、作品としては『雪国』の存在が大きかったと思われる)。

 ひとつの仮説として、川端康成のノーベル文学賞受賞を英語への翻訳者が後押ししたことは考えられると思ったので少し調べてみた。

 すると実に都合よく、私が読んだ2013年発行の角川文庫版『雪国』の巻末に、英語への翻訳者E. G. サイデンステッカーの解説を見つけた。その最後の部分に参考になる記述があったので引用しておく。

 このような繊細な小説を書くのがむずかしいものだとすれば、それを翻訳するのはもっともっとあぶないものだ。近代の日本文学の中で、日本語のもつ不明瞭さを、これほどうまく用いた作品はない。比較的小さな例をあげれば、その会話の成功は、日本文が主語なしに済むということに負うている場合が多い。だが英語では、登場人物を、正体を失った酔っ払いにするか、主語をはっきりさせるか、どちらかにしなければならない。川端の文章は非常に省略された上、わざとぼかしてしまうことが多いので、訳者はほとんど、一文章ごとに、詩文の翻訳者には珍しくない例の問題にぶつかってしまう。だから、原文に手を加えるか、さもなければ幾つかの意味にとれる解釈の一つをかってに決めてしまうか? ということになる。
 この問題に対して採った私の解決法が、終始一貫していないのではないかと心配である。それゆえ、読者は目の前の訳が、ある意味においてやりくり算段の間に合わせものであることを、あらかじめ知っていただきたい。

 なるほど、これで納得である。『雪国』は善き理解者であり、優れた翻訳家でもあるサイデンステッカーによって、私が不自然に感じた会話部分や曖昧(あいまい)な表現を修正の上、英訳されていたわけだ。もちろん原文が優れていたことは確かだが、ノーベル文学賞に関しては翻訳者の力もかなりの影響があったに違いない。そう考えてサイデンステッカーについてWikipediaで調べてみると、以下のような記述に出会った。

 『雪国』の英訳では、川端康成のノーベル文学賞受賞に貢献した。 実際、川端康成自身、「ノーベル賞の半分は、サイデンステッカー教授のものだ」と言い、賞金も半分渡している。

 川端康成自身も、ノーベル文学賞は「ちょっとできすぎ」と思っていたのかもしれない。

雪国
発  行:1956年4月20日初版発行
     2012年4月27日旧版66版発行
     2013年6月20日改版初版発行
出版社 :角川書店(文庫)
ページ数:178ページ

ここからは小説の内容について触れるため「ネタバレ注意」。まだ本書を未読の方は読まないでください。

P.68くらいまで読んで……
 駒子のイメージが、最初の方と物語が進むうちに出てくるものと違い過ぎて違和感を感じる。これは、足掛け14年もかけて執筆したためだろうか。作者の計算づくのこととは到底思えないが……どうなんだろう。

P.70
「あんた、そんなこと言うのがよくないのよ。私の好きなようにするのを、死んで行く人がどうして止められるの?」

 駒子……。どうも、感じ悪いね。

P.73
勧進帳が終ると島村はほっとして、ああ、この女はおれに惚(ほ)れているのだと思ったが、それがまた情なかった。

こういうことを言う奴は、昔からもてない奴と決まっているのだが、こんな文章を書く川端康成自身はどうだったのだろうか?

P.76あたりまで読んで。
もしかするとこの小説は、東京の女ったらしと田舎娘のくだらぬ恋愛譚(れんあいたん)に過ぎないんじゃないかという疑惑を感じ出してしまった。

P.82
駒子が島村を駅まで送り、そこに葉子が行男の病状急変を伝えにくるシーン。
どうも駒子の反応の不自然さが気になる。川端康成と私の思考パターンは、まったく異なるようである。

P.84
「早くね、早くね」と、言うなり後向いて走り出したのは嘘みたいにあっけなかったが、遠ざかる後姿を見送っていると、なぜまたあの娘はいつもああ真剣な様子なのだろうと、この場にあるまじい不審が島村の心を掠(かす)めた。

葉子が行男の急変を告げにきたシーンである。確かにわれわれは、その場にふさわしくない不謹慎なことを思うことはある。しかし他人の当然な行動に対して、このようなことを考えることはありえないと感じた。

P.90〜91
 いっしょに見送っていたおかみさんに誘われて、島村も帳場へ行くと、炉端に大柄の女が後向きに坐っていた。女は裾を取って立ち上った。黒紋附(くろもんつき)を着ていた。
 スキイ場の宣伝写真に、座敷着のまま木綿の山袴(さんぱく)を穿(は)きスキイに乗って、駒子と並んでいたので、島村も見覚えのある芸者だった。ふっくりと押出しの大様(おおよう)な年増だった。
 宿の主人は炉に金火箸を渡して、大きい小判型の饅頭(まんじゅう)を焼いていた。
「こんなもの。お一ついかがです。祝いものでございますから、お慰みに一口召上ってみたら」
「今の人が引いたんですか」
「はい」
「いい芸者ですね」
「年期があけて、挨拶廻(あいさつまわ)りに来ましてな。よく売れた子でしたけれども」

まぁ、注意深く読めば理解できるのだが、上記のような読者の想像力に任せる必要もない場面での、無意味な省略……いわば叙述不足のような箇所が多いのもこの作品の特徴である。

P.94
 二月の十四日には鳥追い祭がある。雪国らしい子供の年中行事である。十日も前から、村の子供等は藁沓(わらぐつ)で雪を踏み固め、その雪の板を二尺ぐらいに切り起し、それを積み重ねて、雪の堂を築く。それは三間四方(さんけんしほう)に高さ一丈に余る雪の堂である。十四日の夜は家々の注連縄(しめなわ)を貰(もら)い集めて来て、堂の前であかあかと焚火(たきび)をする。この村の正月は二月の一日だから、注連縄があるのだ。そうして子供達は雪の堂の屋根に上って、押し合い揉(も)み合い鳥追いの歌を歌う。それから子供達は雪の堂に入って燈明(とうみょう)をともし、そこで夜明かしする。そしてもう一度、十五日の明け方に雪の堂の屋根で、鳥追いの歌を歌うのである。
※三間=およそ5.45メートル 一丈=およそ3.03メートル

日本の各地にこの鳥追い祭のようなものがある。地方の過疎化が進むということは、徐々に日本各地の文化が失われていくということにほかならない。やはりそれは寂しいことである。

P.97
「ええ。あの店へ入るはずだったのを、ねえさんの心柄(こころがら)でふいにしちゃったんだわ。騒ぎだったわね、せっかく自分のために家を建てさせておいて、いざ入るばかりになった時に、蹴っちゃったんですもの。好きな人が出来て、その人と結婚するつもりだったんだけれど、騙されてたのね。夢中になると、あんなかしらね。その相手に逃げられたからって、今から元の鞘(さや)におさまって、店を貰いますというわけにもいかないし、みっともなくてこの土地にはいられないし、またよそで稼ぎ直すんですわ。考えると可哀想(かわいそう)なんだわ。私達もよく知らなかったけれど、いろんな人があったのね」
「男がね。五人もあったのかい」
「そうね」と、駒子は含み笑いをしたが、ふっと横を向いた。

男は二人か三人くらいにしとけばいいのに……。なんでこんなにストーリーが雑なんだろう。

P.106
「私のようなのは子供が出来ないのかしらね」と、駒子は生真面目にたずねた。一人の人とつきあってれば、夫婦とおなじではないかと言うのだった。
 駒子にそういう人のあるのを島村は初めて知った。十七の年から五年続いていると言う。島村が前から訝(いぶか)しく思っていた、駒子の無知で無警戒なのはそれで分った。
 半玉で受け出してくれた人に死に別れて、港へ帰るとすぐにその話があったためか、駒子は初めから今日までその人が厭(いや)で、いつまでも打ちとけられないと言う。

ここも意味不明である。行男だけならともかく、駒子が厭がっていたとしてもそんな人がいるなら、(駒子は)あんまり好き勝手なことはできなかったはずだが。

P.120
「葉子さん早いのね。髪結いさんへ私……」と、駒子が言いかかった時だった。どっと真黒な突風に吹き飛ばされたように、彼女も島村も身を竦(すく)めた。
 貨物列車が轟然(ごうぜん)と真近を通ったのだ。
(中略)
 思いがめなく葉子にあったので、二人は汽車の来るのも気がつかなかったほどだったが、そのようななにかも、貨物列車が吹き払って行ってしまった。

う〜ん、貨物列車の接近に気づかぬはずはあるまい。

P.131
「それでいいのよ。ほんとうに人を好きになれるのは、もう女だけなんですから」と、駒子は少し顔を赤らめてうつ向いた。

そんなことはないと思うが。

P.153
 駒子の肌は洗い立てのように清潔で、島村のふとした言葉もあんな風に聞きちがえねばならぬ女とはとうてい思えないところに、かえって逆らい難い悲しみがあるかと見えた。

「君はいい女だね」をめぐる解釈はいろいろ考えられる。サイデンステッカーはここらへんをどう表現したのだろうか。 そのうち調べてみよう。

P.154
そうして十五、六から二十四、五までの女の若さでなければ、品のいい縮(ちぢみ)は出来なかった。年を取っては機面(はたづら)のつやが失われた。

これは間違いだろう。むしろもう少し年季を積んだものでなければ品のいいものは作れなかったのではないだろうか。

P.162
 車が駒子の前に来た。駒子はふっと目をつぶったかと思うと、ぱっと車に飛びついた。車は止まらないでそのまま静かに坂を登った。駒子は扉の外の足場に身をかがめて、扉の把手(とって)につかまっていた。
 飛びかかって吸いついたような勢いでありながら、島村はふわりと温かいものに寄り添われたようで、駒子のしていることに不自然も危険も感じなかった。

いや、これは普通、車を止めるだろ。異常な行動だし、島村は少なくとも驚くだろ。

P.167
「天の河。きれいねえ」

ここから最後までの部分の情景描写は見事のひと言に尽きると思う。

P.195 サイデンステッカーの解説から
 暗さとすさんだ美は、彼のおもな作品の底を流れる基調である。“雪国”の中で、我々は最も強く、川端の世界のこの冷え冷えとした寂しさを感ずるにちがいない。

なるほど。

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