『姑獲鳥の夏』京極夏彦の書評です
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『姑獲鳥の夏』京極夏彦

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 京極夏彦氏の著作は、今回初挑戦である。どれから読み始めようか悩んだが、この「百鬼夜行シリーズ」は評判がいいようだし、『姑獲鳥の夏』は処女作だということで選んだ。

 事前知識は、陰陽師(おんみょうじ)が登場するということぐらいしかなかったため、読み始めてちょっと意外に感じた点がいくつかあった。

 まず、魑魅魍魎(ちみもうりょう)や妖怪変化が登場するのかと思っていたのだが、そのようなものは登場人物同士の会話の中にチラッと出てくるだけで本作にはほとんど登場しない。完全に私は誤解していたのだが、作者はものごとを理論的に考えて解明していくタイプの人らしい。
※Wikipediaで調べてみると、妖怪などを扱った著作もあるようなので、そちらではまた違ったアプローチをしているのかもしれない。

 もうひとつ読み始める前に思っていたのは、この作者の作品はどれも「ずいぶんページ数が多いなぁ(書店ではしばしば見かけていたので知っていた)」ということである。人気作家であるから、長いからといって読者を退屈させるようなことはないだろうとは思っていたが、どうしてあんなに長いのか、その点を少しだけ訝(いぶか)しく感じていたわけだ。長くなる理由は読み始めてすぐにわかった。作者は、かなり多方面の知識を持っているらしく、物語のストーリーに絡めて様々な蘊蓄(うんちく)を披露しているのだ。登場人物に語らせる蘊蓄(うんちく)がけっこう長く、わりと理屈っぽい。私は意外とその手の話が好きなので苦にならないが、人によってはそう言う部分は好まない人がいるかもしれない。京極作品の好き嫌いは、案外こんなところで決まるのかもしれない。

 ストーリーは処女作としてはよくできている。描写、展開がしっかりしているので飽きずに読み進むことができる。

 2、3、難点を上げておくとすれば、結末に救いようがない点と登場人物の中に魅力に欠けるキャラクターが複数見受けられることだ。

 まぁ、そこらへんは個人の好みの問題が大きいのであまり気にしないでいただきたい。

 本作は上質のサスペンス・ミステリーとしてかなりお勧めである。

姑獲鳥(うぶめ)の夏
発  表:1994年9月
出版社 :講談社
ページ数:621ページ(2005年8月26日第四刷)

ここからは小説の内容について触れるため「ネタバレ注意」。まだ本書を未読の方は読まないでください。

P.40
京極堂と関口の記憶についての会話(一部省略)
「——記憶は脳に蓄えられているんじゃないか。脳こそ記憶の倉庫ではないのかね?」
「そうとはいい切れないよ。しかし確然(はっきり)していることは、脳が税関の役割を果たしているということだね。目や耳などを通じて外から入って来た情報の総てを、脳という税関は確実に検閲している。そして納得の行くものしか通さない。検閲に通ったものだけ意識の舞台に乗ることが出来る——」
「通らなかったものはどうなるんだ?」
「意識の舞台に乗らぬまま記憶の蔵に仕舞われるのさ。さて、この検閲の際に基準となるのも、また記憶だ。これも脳が都合の良い在庫を引っ張り出して来て検品する訳だ。検品が済めば新旧合わせてまた蔵へと戻す」

※どうやら京極氏の作品は、このような蘊蓄(うんちく)が随所に出てくるのが特徴らしい。私はこういうのが好きなのでたまりませんな(笑)。

 京極堂の説明によると、脳という税関は依頼主の要望に答えるために、ときどき不正を働いたり、まがい物を輸入したりするらしい。例えば「死んだ人間に逢いたい」とかね。しかし、それは無理な相談であるため、脳は勝手に幽霊を創り出してしまう。……なるほど面白い解釈である。

P.151
「彼らは喜んで奇跡だ、不思議だ、というだろうね。何の説明にもなっちゃいない。奇跡を奇跡として認めるということは逆説的に奇跡は普通は起こらないものなのだ——という世界観を認めていることになってしまうじゃないか。だから胡散臭(うさんくさ)い。一方否定派の連中は自分たちの知っている蟻の背中みたいな小さな常識に反するものだから頭からそれを無視したりする。何かの間違いだ、と考える。愚かじゃないか。奇跡だの怪異だのというのは昨日関口君にも話した通り、偶(たまさ)か現在の常識に合致しなかったり、今の科学知識が及ぶ範囲ではなかったりしているというだけのことだ。そもそも起こる筈(はず)のないことは起こらない。それが僕の持論だ。起こってしまった以上、最早起こり得ないこととは呼べないだろう。超常だの超自然だのといってみたって、まあ外国語の直訳なんだろうが、日本語としちゃあ意味不明だ。反自然とか脱常識とかいう意味でもない」

 似たようなことを、いろいろな事件のニュースを見ていて思うことがある。

 私は残虐な殺人事件などのニュースを見ると、「どうしてこんなことができるのだろう。自分だったら絶対にやらない」と感じたりする。が、それは間違いなのだ。同じ人類であり、ほぼ同じような環境の中で生きて来た同胞が犯した犯罪であれば、場合によっては自分も引き起こすと考えた方がいい。私はしばしばそのように考えて自分を戒(いまし)めている。

P.242あたり
 この辺は、中だるみしていると感じる。

P.253
 榎木津の考え……ちょっと無理があるような感じ。

 ※感じの使い方、カタカナ表記の仕方が独特なのは、昭和中期の感じを出したいためなのだろうか。それとも作者の趣味だろうか?

P.268
 どうも榎木津の役回りが解(げ)せないなぁ。彼が登場すると物語が不自然になる。同様に物語中盤当たりから関口の行動にも不自然さが目立つ。

P.326
 京極堂が出てくると、とたんに物語が安易に進展を始める。まぁ、京極堂の役回りを考えればそれも仕方がないのかもしれないが、もう少しバランスを取れないものか。

P.332
「旦那(だんな)、鬼子母神は本来、訶梨帝母(かりていも)といって印度の鬼神の妻なんだ。別名、青色鬼とか、大薬叉女(だいやくしゃにょ)とか、端的に悪女なんて呼び方もされる。彼女には驚くことに五百人も子供がいた。それなのに毎日他人の子供を獲っちゃ喰いしていた。喰われる方は堪(たま)ったもんじゃない。そこで仏様が登場、彼女の五百人の子供のうちの一人、畢哩孕迦(ひりようか)を隠してしまった。訶梨帝母(かりていも)は嘆き悲しんだ。五百人が四百九十九人になってもそう変わらないような気もするが、そこは母親、一人でもいないと心配だ。気も狂わんばかりに悲しんだ。そこに仏様が厳(おごそ)かに現れ、五百人のうちの一人が欠けてもそんなに苦しいのだ、況(まし)てや一人しかいない子をお前に喰われた者の身になってみろ——と、まあ諭(さと)した訳だ。はっと気づいた訶梨帝母(かりていも)、深く頭を垂れ悔い改めて仏教に帰依し、仏法を守る護法神となり、仏様の眷属(けんぞく)として崇(あが)め奉られるようになったと、まあこういう訳だ」

「仏さんの裁量というのは随分と甘いもんだなおい。俺ならそんな奴ァ許さねエぞ。極刑にするところだ」

 木場が濁声(だみごえ)でそういうと、京極堂はにやりと笑った。

「いや、これは仏教の手口ですよ、旦那。耶蘇教(やそきょう)のように融通の利かない固い構造を持った宗教、主に遊牧——侵略民族の宗教は、生き残るためにある部分で好戦的にならざるを得ない。だから、侵攻していった先の地場の信仰を徹底的に弾圧する。完膚なきまでに叩きのめす。その結果、土着神は悪魔(デーモン)に、集会は奢覇都(サバト)に、祭祀は黒弥撤(くろミサ)に変形される。結局後世には反基督(はんキリスト)という形でしか残らない。例えば、奢覇都(サバト)の黒山羊として知られるパフォメッドという悪魔は、回教のマホメッドを貶(おとし)めたものなのだそうだ。しかし——仏教は遥かに柔軟な構造を持っている。まあいい換えればいい加減なんだが、土着の宗教を吸収してしまう。というよりそれと融合してしまう。印度に於てもバラモン教やヒンドゥー教などがあった訳だが、バラモン教の神神は天に、ヒンドゥー教のそれは明王として吸収してしまった。訶梨帝母(かりていも)もその一人ですよ。さっきの話も『根本説一切有部毘奈耶雑事(こんぽんせついっさいうぶびなやぞうじ)』という仏典が出どころだが、一回悪くいった後、ちゃんと持ち上げるからその辺が巧い。元来神様というのは良い面と悪い面両方持っているのが普通で、遍(あまね)く両義的なものだから、悪い部分を糾弾しておいて良いところで褒めるのは簡単なんだな——」

 ここら辺の記述はわかりやすくてためになる。かた苦しい仏教書を読むより、ある意味仏教についての理解は進むかもしれない。もちろん表面的な部分だけだけどね。

P.334
大田南畝(おおたなんぽ:別号 蜀山人)の狂歌
恐れ入谷の鬼子母神、びっくり下谷の広徳寺、
どうで有馬の水天宮、志やれの内のお祖師様、
うそを築地の御門跡

P.335
「そもそも仏教は、愛という観念は捨てるべきだと説いている。愛は即(すなわ)ち執着——といい換えることが出来るからね。凡百(あらゆる)執着を捨てることが唯一の解脱——如来へ到る道なんだ。だから訶梨帝母(かりていも)の説話も、本来であれば子供に対する異様な執着を捨てよ、と諭したと解釈する方が正しいのかもしれない。凡(すべ)てを捨て去って仏道に帰依すれば、一切の罪業は滅却し、悟りが開けるという——つまり親鸞のいう、善人なおもて成仏す、いわんや悪人をや、の境地だね」

P.336
「そんなに刹那的(せつなてき)になることはない。まあ受け取り方は十人十色さ。君のような俗人のために、仏教は小乗から大乗へと変容を遂げて来たのだ。(後略)」

 どうもこの辺からますます関口の存在がうざったくなってくるなぁ。もう少しなんとかならんものか。

P.372
京都堀川、一条戻橋といえば鬼女の腕を渡辺綱(わたなべのつな)が切り落としたので有名な橋がある。また陰陽師・安倍晴明(あべのせいめい)がその下に十二匹の式鬼を飼っていたとも伝えられる。慥(たし)か橋の近くに清明の屋敷址(あと)があり、そこは清明を祀(まつ)った清明神社になっている筈(はず)だ。

P.373
「俺はな、ここの連中が気に入っている。貧しくて風呂に入れなくて何が悪い、そういうところが好きなんだ。貧乏人の上に胡坐(あぐら)をかいてすましている奴等の方がよっぽど虫が好かねえ。何、ちょっと前までは日本中こんなもんだったじゃねえか」

 確かにその通り。

P.374
 告白するなら、私は実のところ徹頭徹尾反戦論者だった。しかし私は反社会的である前に非社会的だったから、反戦論者と見破られることはなかったし、不本意乍(なが)ら戦争にも参加した。謂(い)わば卑怯者である。私はそんな自分を恥じた。しかし少なくとも私の知っている多くの日本人は、心から戦争の正当性を信じていたように見えた。勿論(もちろん)、死ぬことや戦うことを真に好んだ者など誰もいなかっただろうが、日本の国体が間違いであると心から思っていた者となると何人いただろう。
 いずれにしても、その不可解な生命力を礎(いしずえ)に、国は講和を果たし、国民の生活は破竹の勢いで向上している。そして豊かさと引き替えにその生命力はどんどん薄れて行く。

 ここらへんには、作者の社会観が現れているのだろう。こういう部分を随所に入れるところがこの作者のうまいところだな。

P.381
天網恢恢疎にして漏らさず……天網は目があらいようだが、悪人を漏らさず捕らえる。天道は厳正で悪事をはたらいた者には必ずその報いがある。(大辞林より)

P.389
「だからお前さんのいう通り、弱いもんにとっちゃあ神も仏もねえ世の中なんだろうさ。だがな、だからこそ、神も仏も、正義も、信じられるもんが何もねえからこそ、法律があるんだ。法律は、弱いもんを強くしてくれるただひとつの武器だぜ。法に背くな。味方に付けるんだ」

 この考えには同意。そして法律は判事、検事、弁護士の専有物ではない。

P.399
 久遠寺涼子の記憶を部分的に失わせるという仕掛けはあまりいただけないなぁ。

P.411
「(前略)だいいち形式や様式というのは約束事が通用する限られた範囲でのみ有効なんだ。普通の神社で柏手(かしわで)を四度も打ったら馬鹿だと思われるが、出雲大社と宇佐神宮では四拍手が当たり前だ。いや——拍手そのものだって敬意の表れには違いないが、仏壇に拍手をしたら顰蹙(ひんしゅく)を買うだろう。(後略)」

 なるほど……。上記以外にも柏手の打ち方にはいろいろあるらしい。
 柏手(Wikipedia)

P.434
「いいですか、仏教の基本理念は輪廻転生(りんねてんしょう)です。生を完(まっと)うした者は必ず六道(ろくどう・りくどう)のいずれかに再び生を享(う)ける。つまり浮かばれず迷っている暇などない。仏教は本来霊の存在を認めてはいないんです——」
 黒衣の男は一歩前に出る。
「——では基督(キリスト)教はどうかというと、こちらは洗礼を受けずに死したる者は地獄へ行く。信仰の成っている者は天に召される。神に対しての悪魔はいるが、こちらも霊魂がどうこうのいう隙間はない——」
 白衣の内藤はやや身を引く。視線を逸らす。
「——回教とて大差はない。コーランに従い、いかにアッラーの意志の通りに生きたかが問題であり、その出来不出来で死後行く場所が決まるだけだ。計らずも世界宗教と呼ばれる三大宗教の凡(すべ)てが、如何(いかが)わしき霊魂を歓迎していないのです。何故なら宗教とは即ち生きている者のためにあるのであって、死者のためにあるものではないからです——」

 上記解釈に全面的に賛成はできないものの、面白い考えだとは思う。
 六道(Wikipedia)

P.439
「生兵法は怪我の元というじゃあありませんか。久遠寺流が単なる憑物筋(つきものすじ)ではなく、元を辿(たど)れば歴(れっき)とした陰陽道の一流派であったことは想像に難くありませんがね、しかしこういったことは軽弾みになさらない方が身のためですよ。人を呪わば穴二つ掘れ、というじゃありませんか。あなたの打った見当外れなまじものは、古(いにしえ)の言い伝えと同じく、いとも簡単に呪詛(じゅそ)返しにあって——この家に禍(わざわい)を為したに過ぎません」

 人を呪わば穴二つ……確かにその通りである。

P.520
 被害者の死体を屍蠟(しろう)にして腐敗しなかったことにするというのはちょっと反則だな(笑)。

P.544
「地域の民族社会にはルールがある。呪いが成立するにも法則というものがある。無意味な誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)では成立しません。民族社会では呪う方と呪われる方に、暗黙のうちに一種の契約が交わされている。呪術はその契約の上に成り立っているコミュニケーションの手段です。しかし現代社会では、その契約の約款が失われてしまった。更(さら)に共同体の内部では、呪いに対する救済措置もきちんと用意されている。努力した結果の成功も憑物(つきもの)の所為(せい)にされる代わりに、自分の失敗で破産しても座敷童子(ざしきわらし)の所為に出来る。都市にそんな救済措置はありません。あるのは自由、平等、民主主義の仮面を被った陰湿な差別主義だけです。現代の都市に持ち込まれた呪いは、単に悪口雑言罵詈讒謗(あっこうぞうごんばりざんぼう)、誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)の類と何ら変わらぬ機能しか持たないのです。(後略)。

P.571
「書物の持つ価値は歴史的遺物としての価値や骨董品的価値だけではありません。読む者にそれを読み解く力さえあれば、仮令(たとえ)何百年経とうと昨日書かれたもののように価値を生み出すのです。この世に役に立たない本などないのです」

 もちろん本の価値は著者にもっとも依存するが、確かに読者に読み解く力がなければ何にもならないというのも真実。しかしそうすると、読者側にしてみれば「わかるようにかけよ」となる。ここらへんは堂々巡りだな。

P.577
「だが、——憑物(つきもの)は獣憑きに限ったものじゃないんだ。普段使っている脳より一段高い脳、普段は使われない脳が機能してしまう場合もある。これが神憑(かみがか)りだ。この場合は普段再生されることのない記憶や一般の常識を遥かに越えた感情が発露する。つまり、自分の知らないことまで知っているような状態になってしまう。普段見えないものまで見える。聞こえない音まで聞こえる——神の声を聞き、託宣(たくせん)を語る」

 「普段使われない脳が機能してしまう」という考えは面白い。

P.607
——この技術は今の社会には受け入れられない。それに、これが人間にとって本当に必要な技術なら、こういう技術が受け入れられる社会が訪れたとき必ず誰かが開発するだろう。だから今こんなものがあっても仕様がないのだ。

 もちろん新技術にはいい点がたくさんあるのだが、悪い点もある。それを忘れてはいけないと思う。

P.612
「日常と非日常は連続している。慥(たし)かに日常から非日常を覗(のぞ)くと恐ろしく思えるし、逆に非日常から日常を覗(のぞ)くと馬鹿馬鹿しく思えたりする。しかしそれは別のものではない。同じものなのだ。世界はいつも、何があろうと変わらず運行している。個人の脳が自分に都合良く日常だ、非日常だと線を引いているに過ぎないのだ。いつ何が起ころうと当たり前だし、何も起きなくても当たり前だ。なるようになっているだけだ。この世に不思議なことなど何もないのだ」

 「この世に不思議なことなど何もないのだ」→ 確かにその通りかもしれない。

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