
1853年3月30日
オランダ南部フロート・ズンデルトの牧師館で生まれる。
1857年5月1日
弟テオドルス(テオ)が生れる。
1864年10月1日
ゼーフェンベルヘンの寄宿学校に入学。フィンセントは頑固で強情な性格だった。友だちとのいさかいも絶えず、地元の小学校は退学になっていた。
1869年
伯父の紹介で大手美術商のグーピル商会ハーグ支店に就職。
1872年12月
やはり伯父の紹介で弟テオがグーピル商会ブリュッセル支店に就職。それを知ったフィンセントは、テオに往復書簡をはじめることを提案する。以来この往復書簡はフィンセントが亡くなるまで17年間続く。
1873〜1874年
グーピル商会で働きぶりが認められたフィンセントは、ロンドン支店へ栄転。下宿先の娘に恋愛感情を抱き告白するが失恋してしまう。
1876年4月1日
失恋から立ち直れず仕事に身が入らないフィンセントは、しだいに宗教にのめりこむようになりグーピル商会を解雇されてしまう。
その後語学教師の職を得るが、生徒は貧しい家庭の子どもが多く、フィンセントは滞納された授業料を集めることができず、ここでも解雇される。
1876〜1878年
フィンセントは、補助説教師、書店員を経て神学大学入学のための受験勉強をはじめるが、学力が追いつかず結局断念。ベルギーのブリュッセルで伝道師養成学校へ入学する。
1879年
1月、伝導委員会に認められベルギーのボリナージュで試験的に6カ月の伝道活動を開始。フィンセントは献身的な活動を行う。しかし、フィンセントの常軌を逸した献身活動は伝導委員会に評価されず試験期間終了後解任されてしまう。
1879年10月〜1880年7月
何をやっても長続きしないフィンセントは、最高の理解者テオからも非難され、この間往復書簡は中断される。テオとの往復書簡が長期にわたって中断されるのは、このときとロンドンで失恋したときの2度だけである。
1880年10月
フィンセントは、画家となることを決意する。
1881年
フィンセントは6カ月ほど、エッテンの両親のもとで過ごし、50点ほどのデッサンを残す。未亡人の従姉に熱を上げ告白するが失恋してしまう。クリスマスにフィンセントは、父と大げんかとなり家を飛び出し、ハーグに住むいとこの画家アントン・マウフェのもとに身を寄せる。
1882年
娼婦シーンと出会い同棲を始める。
1883年
娼婦シーンとの生活は破綻、フィンセントは結局両親が暮らすニューネンに落ち着く。
1885年
3月、父のテオドルス・ファン・ゴッホが亡くなる。11月、2年間描きためた数百点の絵を残し、ルーベンスを見るためにアントワープへ向かう。この後フィンセントは二度と故国オランダの土を踏むことはなかった。
1886年
フィンセントは弟テオを頼りパリを訪れる。この年から、ロートレック、スーラ、など多くの画家たちと交流する2年間に及ぶ「パリ時代」が始まる。
パリ時代(1886年3月〜1888年2月)
1887年
フィンセントとゴーギャンが出会う。
1888年2月
フィンセントは、パリにやって来たときと同様に突然パリを去り、南仏アルルに移り住む。
アルル時代(1888年2月〜1889年5月)
1888年8月
《ひまわり》の制作にとりかかる。
1888年10月
ゴーギャンがアルルを訪れ、フィンセントとの共同生活をはじめる。
1888年12月
フィンセントが「耳きり事件」を起こし、ゴーギャンはパリに戻る。
1889年5月
フィンセントはサン・レミ郊外にある精神病院に入院する。フィンセントは、病院でも凄まじい勢いで絵を描き続け、テオへと送り続ける。
サン・レミ時代時代(1889年5月〜1890年5月)
1890年2月
ベルギーのブリュッセルで開かれた20人展に出品したフィンセントの作品《赤いぶどう畑》が400フランで売れる。フィンセントの生前に正式に売れた作品はこの1点だけである。
1890年5月
フィンセントは、テオのすすめでパリ郊外のオーヴェール・シュル・オワーズのガシェ医師のもとに移る。ガシェ医師は、熱心な美術愛好家として知られていた。
1890年7月27日
暑い日曜の午後、フィンセントは畑の中で拳銃を自らの胸に向け発射し自殺を図る。
1890年7月29日午前1時30分
一時は持ち直すかと思われたが容態が悪化し、フィンセント・ファン・ゴッホは37年の生涯を閉じる。それから半年もたたない1891年1月21日に弟テオも急逝する。